2023/3/29

 折に触れ、過去の記憶を掘り起こす。楽しかったことなぞとうの昔に忘れてしまったため、脳裏に浮かぶ情景はすべからくネガティブなイメージを孕む。クラスメイトの囁き、委員のまなざし、親の敬語。昨晩もそうであった。ふと中学校の技術室を思い出した。教卓前の机。四方からの笑い声、「一センチくらいばれへんって」、鋏の音、床を見やれば黒い線。鮮明に思い返し、布団に潜り込み、眠ろうとした。そして気がついた。何も感じない。何も湧き上がらない。怒りが悲しみが絶望が、折れた爪で肌を掻くような、打ちつけた釘を無理に抜くような、痛みが、なくなっていた。
「幸福になりたい 何も考えずぬるぬる生きていけるくらい能天気になりたい」
 忘れられればどれほど楽になるだろう、と、ずっと思っていた。過去を反芻し続け、希死念慮を増幅させたとて、わたしに死ぬほどの気力はない。それならば忘れてしまえば良い。すべて忘れ、何も考えずに生きることができれば、それほど楽なことはないだろう。
「ネガばかり覚えている、お前らがつけた傷忘れねえからな一生」
 しかし、忘れたくはなかった。忘れてしまえばわたしはどうやって生きてゆく。地獄の中で生きられる者は鬼だ。忘れてしまえば呵責だってできない。忘れてやるものか。わたしに絶望を与えたお前たちへの怒りを忘れてやるものか。全員殺してやる。そう思っていた、気がする。
 忘れた。忘れられればとか何とか、いかなる意図もなく、自然に忘れていた。楽に生きている。始発の音を聞いても何も感じない。地上二十メートルから街を見下ろしても何も感じない。真暗な部屋にいれば眠たくなる。文章を書かない。
 怒りや悲しみや絶望は間違いなくわたしのすべてであった。わたしはいつだって、世界に、他人に、自分に、そのような感情を抱いていたように思う。感情のままキーボードに向かえば書けていた。今や何もない。だから何も書けない。酒を飲めば何かは書ける。何を書いたとて過去と同一の表現がある。新しいアイデアは浮かばない。薄れゆく記憶を必死に掘り起こしたとて。

流れゆく 硝子片が波に乗り沖へさらわれる ひかりに混じり判別がつかない しかしたしかに存在する 透明が赤に染まる ずっと ずっと わたしのこころが痛覚をうしなうまで 死ぬまで ずっと痛いままで