2023/8/29

 日付は覚えていない、何せわたしは酔っていた。ただ、わたしの死場所は、八月二十八日の暁に彩られていた。

 死ぬ気だったことには違いない。テトラポッドに座っていたし、『青春の瞬き』も流れていた。しかし、見上げた空がほのか明るくて、綺麗で、水面に映る自らの影があまりにも人間で、あーなんかもうめんどくせーなー全部、となった。防波堤に引き返し、百合を投げた。沖に流されるそれらが見えなくなるまでそこにいた。ほんとうならわたしがあそこにいたのに、と考え、泣いた。帰ろうとしたら、水平線をなぞるように飛ぶ鳥がいた。楽園みたいだと思った。
 わたしは、掃除も洗濯もするし、言葉を書く。しかし、掃除機や洗濯機のように、ただ受け容れることができなくって、ひとが苦手で、きらいで、どうしても共生することが難しくって、自分がひとであることが本当にいやだった。今でもいやだ。でもかたちがひとなのだ。どうしようもない。
 悔しい。死なないことが悔しい。結局死ねない。死にたいと思いながらも死ぬ気力すらない。生きている心地もしていない。空虚に気づけば終わり。漠然と二十七になっても生きていたらどうしようと考える。何も思いつかない。誰かに殺してほしい。
 さみしくなる夜がある。不安や後悔や絶望が浮き彫りになる夜が。わたしはそんな時ひとりで酒を飲むことしかできない。吐露する相手がいない。他者に自らの話をできない。ほんとうに、できない。他者に自らの話を聞かせることが申し訳ない。わたしのつまらん話に時間奪われんの可哀想、などと考える。だから話せない。話せないから、虚空に話すしかない。虚空はわたしに何もしてくれない。どうしようもない。
 わたしはきっと、誰にも殺されず、誰にも看取られず、ひとりで死んでゆく。それを悲しいと思ったこともあって、その頃わたしは「弔わなければ」という強迫観念じみた何かに苛まれていた。今でも夜になると思い出す。から、たぶん、手向けたくなった。
 家に花を飾ること。乱したわたしが発見されたとして、それに手向ける花は枯れ果てているだろう。それがお似合いの生なのかもしれない。死んだら手向けてやってほしい。黄色や、橙色や、赤色や、そういう明るい色はいらない、枯れているくらいがちょうど良い、花を手向けてほしい。わたしが手向けるしかない。だってわたしはひとりで死ぬ。
 そんなことを考えていた。宿を出て、駅前の喫茶店で食べたオムライスはほとんどわたしの理想だった。やっぱり今から死のうかな、と思いながら、五時間かけて帰宅した。家に帰って、眠って、起きて、夜中だったから泣いた。死ぬほど後悔している。