2023/8/29

 日付は覚えていない、何せわたしは酔っていた。ただ、わたしの死場所は、八月二十八日の暁に彩られていた。

 死ぬ気だったことには違いない。テトラポッドに座っていたし、『青春の瞬き』も流れていた。しかし、見上げた空がほのか明るくて、綺麗で、水面に映る自らの影があまりにも人間で、あーなんかもうめんどくせーなー全部、となった。防波堤に引き返し、百合を投げた。沖に流されるそれらが見えなくなるまでそこにいた。ほんとうならわたしがあそこにいたのに、と考え、泣いた。帰ろうとしたら、水平線をなぞるように飛ぶ鳥がいた。楽園みたいだと思った。
 わたしは、掃除も洗濯もするし、言葉を書く。しかし、掃除機や洗濯機のように、ただ受け容れることができなくって、ひとが苦手で、きらいで、どうしても共生することが難しくって、自分がひとであることが本当にいやだった。今でもいやだ。でもかたちがひとなのだ。どうしようもない。
 悔しい。死なないことが悔しい。結局死ねない。死にたいと思いながらも死ぬ気力すらない。生きている心地もしていない。空虚に気づけば終わり。漠然と二十七になっても生きていたらどうしようと考える。何も思いつかない。誰かに殺してほしい。
 さみしくなる夜がある。不安や後悔や絶望が浮き彫りになる夜が。わたしはそんな時ひとりで酒を飲むことしかできない。吐露する相手がいない。他者に自らの話をできない。ほんとうに、できない。他者に自らの話を聞かせることが申し訳ない。わたしのつまらん話に時間奪われんの可哀想、などと考える。だから話せない。話せないから、虚空に話すしかない。虚空はわたしに何もしてくれない。どうしようもない。
 わたしはきっと、誰にも殺されず、誰にも看取られず、ひとりで死んでゆく。それを悲しいと思ったこともあって、その頃わたしは「弔わなければ」という強迫観念じみた何かに苛まれていた。今でも夜になると思い出す。から、たぶん、手向けたくなった。
 家に花を飾ること。乱したわたしが発見されたとして、それに手向ける花は枯れ果てているだろう。それがお似合いの生なのかもしれない。死んだら手向けてやってほしい。黄色や、橙色や、赤色や、そういう明るい色はいらない、枯れているくらいがちょうど良い、花を手向けてほしい。わたしが手向けるしかない。だってわたしはひとりで死ぬ。
 そんなことを考えていた。宿を出て、駅前の喫茶店で食べたオムライスはほとんどわたしの理想だった。やっぱり今から死のうかな、と思いながら、五時間かけて帰宅した。家に帰って、眠って、起きて、夜中だったから泣いた。死ぬほど後悔している。

2023/8/18

 休職した。六月中ほどより希死念慮が止まらなくなっていた。八月のはじめ、目が覚めたら、体が震えていた。取り急ぎ欠勤の連絡を入れ、精神科にかかった。待合室で、わたしは、久かたぶりに自分のために涙を流した。無意識に泣いてしまえば、それはもう、だ。診断書を受け取り、家に帰り、眠り、目覚め、謎の嘔吐と戦い、出勤し、ボス・副ボスと話し、休職が決定した。ほとんど記憶はないが、とにかく心配されていた。
 「今日はもう帰りなさい」と言われ、帰宅した。ひどく穏やかなこころだけが昼下がりの明るい部屋にあった。一か月。会いたいひとに会える。行きたい場所に行ける。本を読める、文字を書ける。なにもできなくなり、ようやっとやりたいことができるようになった気がした。何にも属せないこと。虚空としか話せないこと。どうしようもないこと。ひぐらしがむせび泣く夏。
 執筆ができるようになった。近頃は酒か鬱がなければ書けなかったが、Wordさえ開けば無心でキーボードを叩けるようになった。きっと内省の時間がなかった。わたしは主観でものを書くので、こころのうちを省みなければ書けない。考える時間があれば、すぐに気がつくことであった。最近は、死んだあとを夢想したり、花を求めたり、思想をまき散らしたり、している。
 読書をする。ボスに「図書館にでも行きなさい」と言われたため、図書館でありたけの本を借りた。全て川上弘美の著作である。神話が好きなので。わたしが酷かった時、川上弘美をすすめてくれた、顔も名も知らぬおねーさんのことも。
 音楽を聴く。New Jeansの新譜が好き。小林私の『繁茂』をiTunesで聴けるよろこび。UCARY & THE VALENTINEが良すぎる。もうそろそろPorter Robinsonを聴かねばならない。最近はやたらめったら抒情的な詩を穏やかな旋律に乗せた音楽を聴く。やはりわたしはどう頑張ってもSpangle call Lilli lineが好きなのだと気づいた。
 わたしの周りには面白い人間が多くいる。彼らは皆、諦めていない。わたしは何も言えずにいる。諦めれば楽になることを知っている。諦めない眩しさが好きだ。だから、ただげらげらと笑いながら話を聞いている。そうするしかできない。何も言えない。
 ただ、何も言えなくとも、何もできなくとも、どうにもならなくとも、腹は減るし、眠たくもなるし、ひとは生きる。それを「どうにかなる」と言うのならば、わたしはきっとどうにかなるのであろう。生きていればどうにかなるのだ。その言葉に怒りを抱いていた過去もあったけれど。家には珈琲しかないが、煙草のついでに酒やら穀物やら草やらを買い、生を繋いでいる。この間、良くしてくれる兄ちゃんにすき家に連れられ、三種のチーズ牛丼を初めて食した。味はしなかった。眠剤を入れ、泥のように眠り、一日を駄目にした。腰を痛めた。どうしようもない。今からわたしは花を買う。

2018〜2022

 昨年六月十三日をもって、わたしの鬱は消えたという。結局のところ、わたしは義務感(十八年九月述)を自分勝手と諦念で相殺しているだけであるので、現在も普通に病みはする。しかしせっかく一年が経過したので、過去の鬱日記を下に記す。

1804
たとえばの話で、世界の人間全員の存在価値の総和が一になるとしたら、人一人が同じ分量の価値を持っているとしても、世界の人口分の一になる。で、世界の人間全員が同じ分量の価値を持っているかといえばそうじゃないし、私は多分その平均よりずっとずっと少ないんです。秀でた才能を持ち多くの人々から求められる人より、もっと低くても一般的な高校生より、全ての面で遥かに劣っている人間ですらない私の価値なんかもうノミ以下なんですね。
上の話はちょっと大きすぎるので、私の周囲だけに話を限定しましょう。私はいじめがきっかけでキャラを変えていて、最初は上手くいっていたけれど元が死ぬほど根暗なのでギャップにしんどくなってきたわけです。それを誰に相談しようにも、高校で知り合った人は絶対に無理だし、家族にもキャラを作ってたし、過去の自分を知っている高校以前の人たちとは全員縁を切ってたし、本来の私を知ってる人なんかもうどこにもいない、それってもうイコール存在価値がないってことだと思うんです。
だからどこからどう見ても私の存在価値は皆無で、それ(自分のことを知っている人が一人もいないこと)は本当に辛いけれど、だからといって生きていく上でそれを知られたくはないし、死んだら何も考えずに済むし、自殺なら「アイツは自殺をするほど世の中に辟易していた」とみんなわかってくれる。つまり死ぬのが一番手っ取り早いし精神的にもすごく楽なんです。
今までゆっくり自分のペースで生きて溜め込まずにきちんと話してねってたくさん言われてきたけれど、それがどんな善意で言われていたとしても、自分のペースで生きた結果いじめられたのだからそんなことできるわけないし、私は遠慮して溜め込むと思うし、多分また死ぬと思います。

1809
私の人嫌いは人との関わりが苦手とかそういうレベルではなく、生理的に無理なところ(例えば人が吐いた二酸化炭素が私の身体に触れるのが気持ち悪いみたいな)にまで達していて、なので私は死ぬしかないんです。この死ぬしかない(希望ではなく義務)という気持ちは私の心の底に根強くこびりついています。普段は意識していないけれどいつも心の何処かにあって、それが私の行動を決定しているみたいな感じです。でも意識したが最後止まらなくなるので何らかの対処が必要で、でも浮かんできた気持ちをとりあえず抑えることはできてもこびりついたものは簡単には剥がせない。なので「死ぬしかないのは私が生物と共存するのに適していないひとの成り損ないだからで、それは仕方のないことだ」と考えるようにしました。こうすることで、こびりついた気持ちの質量は変わらないものの、わりかし軽くなりました。でも、そこに他人の善意が関わってくるとネガティブな方向に転がっていってしまいました。例えば家族が私の整形代を払ってくれたこと、切っ掛けは他人であれど決断を下したのは私であって、その決断は生き易くなりたいっていうエゴでしかないじゃないですか。成り損ないで生きることを諦めているくせにそんなことを考えて、それならまだしも他人まで巻き込んで、しかもその相手が私は何も悪くないのだからそれで良いと思っていることも悲しいし、何より可哀想で仕方がない。どう足掻いても社会にいて人と関わる以上私は他人に迷惑かけっぱなしのクソ野郎で、迷惑をかけないようにするには社会にいてはいけなくて、存在を社会から完全に隔離するにはやはり死ぬしかないですよね。でも怖いから死ねない。クソ。

2003
世間一般の人間のように幸福を幸福だと感じる器官はあるのだと思う。楽しい時は楽しいし、面白いことは面白い。ただ、それらポジティブな感情を心に留めるための箱に底がない。ばらばらこぼれおちちゃって、だから多分わたしは整形をしようが薬を飲もうが明るく振る舞おうが幸福だと思うことはできない。一生。幸せになれると思っていたし、幸せになれそうな道もいくつか残されていることも知っている。幸せになるただそれだけを光にして生きてこれたのに、そんなんなかったことがわかって、もうどうすればいいんかがほんまにわからんくて、もうむりで、そんなんわかりきってて、でも死ぬのは怖い。

2009
死にたくはないけど死ぬしか道は残ってない

2012
こころの傷跡を閉じるために刺した釘にどんな些末なできごとでも引っかかって、その重みで釘が下にずれていくからまた傷ができて、というループがあるんです。ふと、もとの形も掴めなくなってしまったことを実感した瞬間に、「わたしは何をしているんだ? この行為、生きていることに意味なんてあるのか? 一生この痛みと付き合っていくくらいなら」と考えてしまう。

2108
多分めちゃくちゃ幸福なんです、両親も健在であるしわたしのこと養う金もあるしわたしのこと多分愛してるし職場の皆も仲良くしてくれるし、でも、わたしは自分のことを幸福だと思えない、思えないつうか幸福を覚えていられない、ネガばかり覚えている、お前らがつけた傷忘れねえからな一生 幸福が嫌い、なのかもしれない、幸福になるの怖くない? 怖いよ だって幸福になるべき人間じゃない わたしはゴミクズです 幸福になりたい 何も考えずぬるぬる生きていけるくらい能天気になりたい 何故両親の死を願ったり確証もないのに嫌われていると錯覚したり金を湯水のように遣ったりわざわざ自ら死ににいったりするのか だってわたし死ぬべき人間であるしだって死ぬことによる迷惑より生きることによる迷惑のがデカすぎる社会のゴミなので、あと死んだら楽 極楽浄土とかないけど けど今から死んだところでアイツには一生勝てんし 多分私よりしんどいひといるけど私の勝ちだよ その通り 人生が粗相 その通り 死ね その通り でも死ぬのはこ〜わいっ! 終

2108
正気さえ失えば人間わりと死ねる これに尽きる マジで半狂乱やった、何故死にたくなったのかもあまり覚えていない、多分前日ODしたのにすっきり目覚めただけで何もなかったから悲しくなっちゃったんやと思う やってる時は苦しさはあったがそれより死ねないことが嫌でした 辛かったです 計六回くらいトライしたと思う 二本目のハンガー、引っ掛けるところが体重で伸びちゃって、床にゴロンして、ここまでやったならいいやろ(?) と思っていた したら眠りに落ちた わりと楽に 薬飲んでたからそれもある筈 ブロチゾラム十一錠とアナフラニール十五錠くらい 死んでみた結果として、今までおった「死ぬしかない」は恐らく完全に消えました 逆に今まで何をそんなに悩んでいたんだ? とも思う その代わり 代わりつうか上書き? なんですけど 死への恐怖もちゃんとなくなった いっぺん死んだしわたしやろうと思えばいつでも死ねますよ? のメンタルです 痣は可愛い 可哀想でよい よくはない フォロワーには申し訳ないことをしたなと思う

2201
「感謝イコール幸福だ、ささやかなこと当たり前のこと、日本に生まれてこれた(衣食住が提供され治安も良い)ことに感謝をしろ」 「『自分』が『幸福か否か』」は主観で判断されるものであり、「『生物』として『恵まれているか否か』」という客観的な判断とは違うのでは わたしは確かに恵まれている、が、自らを不幸だと思っているし、わたしはそんな不幸な自分が可愛いし不幸な自分以外を気にし剰え感謝するなぞそんな必要がどこにあるのかと思うしでも他人の何気ない所作視線一言で被害妄想が肥大化し心がスクラップになってしまう 自己愛と自己嫌悪の狭間で死んでいる

2204
人と関わることが怖いです。とても強い理由がないと、生身の人間がいるところに出たくありません。怖いです。どれほどの治療をしてもらおうが、どれだけの人と関わろうが、いくら自己肯定感を高めようが、治りませんでした。怖いです。この人が怖い。何故この人はこのようなことを言うのであろうか。善か偽善か、どちらにせよわたしにとっては悪だ。生命を脅かす存在だ! 人を殺すことは罪となり、死ぬこともできずに檻の中で生きてゆくしかない!

2204
人と話すことは、できなくもない。話さざるを得ないなら、話すとこちらに利益があるなら、初対面の人間に対してもアホほど喋るし、アホほど笑うし、アホほど悲しむことができる。そうしないといけないので。そういうことで、うわべの付き合いはそれなりに得意なほうだと自負している。問題は、それなりに親交を深めた人間との会話だ。わたしは、そういう人間には、気を遣わなくなるきらいがある。脳死で話してしまうし、脊髄がゴミカスであるため、無意識のうち、人を不快にさせてしまう、と思っている。彼らがそう感じている素振りがなくとも、思ってしまう。
地球は生きにくい。理解されないし、傷つけられるし、救われない。誰といても生きにくい。理解できないし、傷つけるし、救えないから救わない。だから苦手、嫌い、怖い。わたしは地球外生命体であるのかもしれない。だからどこかの部分で地球に迎合できない。しかし地球から逃れることはできない。わたしは紛れもない地球人で、地球でしか生きられない。

2210
たくさん嬉しい言葉をもらってきた人生ですが、わたしは頭悪いし、ブスやし、利己的やし、ゴミクズですし、他人より遥かに劣っているし、人権獲得しちゃ駄目だし、世間様にひどい迷惑かけるような死にかたをするよりも息してるほうが迷惑やし、つまり死んだほうが良いし、死ぬべきやし、しかしそれの何がわり〜の〜? 迷惑万々歳! 迷惑かけられたくないなら放っておいてくれ関わらないでくれ! 肯定も否定もするな! 無関心でいろ! よしよしもぺちぺちもするな! 触るな! わたしのおつむはわたしだけが撫でられんのよ! こころを撫でられてもわたしはそれに値する人間ではないと思うし、その言動がほんとうのものだとは思えない わたしのこと好きなの、ほんとうにありがとう、わたしも大好き、でもきみの見るわたしってたぶん好きフィルターかかったわたしですからね、期待はしないでね

2211
死ぬことを考えても特に感情は乱れないのに、生き続けてしまうことを考えればどうしようもなく辛い 辛いのが嫌なので死ぬことばかり考えている わたしは大昔から二十七歳で死ぬと決めているので、今はそれで普通に生きている 死ぬタイプのギャル卍マインドで生きられている ただ、現時点でわたしには希死念慮がない、死にたいと思えない、しかし生きたいとも思わない、死ぬ気力もない、自然発生するエネルギーすべてをあと六年ほど生きるために消費している 言われたからね、わたしは天才なので二十七で死ねばいい しかし二十七歳を過ぎても希死念慮が発生しなかったら? 死ぬ気力がなかったら? ニブイチの確率で死ぬことも生きることもできない廃人になってしまうのかもしれない 酒を飲み煙草を喫い布団の中で息をするだけでいることがほんとうに辛いとわたしは知っている だから嫌なんだよ生きることを考えるのは こころは絶好調 怒るととてつもなく元気 生まれたくなかった、なぜ親のエゴでこちらが差異に苦しまなければならないのか理由がわからない、子を成した人間は須く嫌い、能天気に生きたい、能天気に生きたくない、普通になりたくない、普通とレッテルを貼られればアイデンティティが崩壊する、鬱が治り外に出られるようになったことも、働けるようになったことも、辛かった、生きることに向いていないことだけが救い

2023/3/29

 折に触れ、過去の記憶を掘り起こす。楽しかったことなぞとうの昔に忘れてしまったため、脳裏に浮かぶ情景はすべからくネガティブなイメージを孕む。クラスメイトの囁き、委員のまなざし、親の敬語。昨晩もそうであった。ふと中学校の技術室を思い出した。教卓前の机。四方からの笑い声、「一センチくらいばれへんって」、鋏の音、床を見やれば黒い線。鮮明に思い返し、布団に潜り込み、眠ろうとした。そして気がついた。何も感じない。何も湧き上がらない。怒りが悲しみが絶望が、折れた爪で肌を掻くような、打ちつけた釘を無理に抜くような、痛みが、なくなっていた。
「幸福になりたい 何も考えずぬるぬる生きていけるくらい能天気になりたい」
 忘れられればどれほど楽になるだろう、と、ずっと思っていた。過去を反芻し続け、希死念慮を増幅させたとて、わたしに死ぬほどの気力はない。それならば忘れてしまえば良い。すべて忘れ、何も考えずに生きることができれば、それほど楽なことはないだろう。
「ネガばかり覚えている、お前らがつけた傷忘れねえからな一生」
 しかし、忘れたくはなかった。忘れてしまえばわたしはどうやって生きてゆく。地獄の中で生きられる者は鬼だ。忘れてしまえば呵責だってできない。忘れてやるものか。わたしに絶望を与えたお前たちへの怒りを忘れてやるものか。全員殺してやる。そう思っていた、気がする。
 忘れた。忘れられればとか何とか、いかなる意図もなく、自然に忘れていた。楽に生きている。始発の音を聞いても何も感じない。地上二十メートルから街を見下ろしても何も感じない。真暗な部屋にいれば眠たくなる。文章を書かない。
 怒りや悲しみや絶望は間違いなくわたしのすべてであった。わたしはいつだって、世界に、他人に、自分に、そのような感情を抱いていたように思う。感情のままキーボードに向かえば書けていた。今や何もない。だから何も書けない。酒を飲めば何かは書ける。何を書いたとて過去と同一の表現がある。新しいアイデアは浮かばない。薄れゆく記憶を必死に掘り起こしたとて。

流れゆく 硝子片が波に乗り沖へさらわれる ひかりに混じり判別がつかない しかしたしかに存在する 透明が赤に染まる ずっと ずっと わたしのこころが痛覚をうしなうまで 死ぬまで ずっと痛いままで

2023/1/22

 秩序ある思考ができない。ひとりで話していると、ガリレオの生涯について語っていたつもりが、いつの間にか大富豪のルール説明になっている。今までの日記もそうであった。思考を思考のまま書き連ねれば、収集がつかなくなるだろう。不要な部分をカットし、段落をつけ、入れ替え、それっぽく見せていた。もしかすると、わたしの意図せぬところで、わたしなりの秩序があるのかもしれない。わたしはわたしの秩序を知りたい。「畢竟、おまえは、おれが死んでも涙を流さない」。「あなたが奪えるものなんて、私にとっては取るに足らないものばかりでしょう。私はあなたなんかに損なわれない。そんな私が好きなんでしょう」。今しか考えない。それはわたしのアイデンティティの一つである。きっと昔のわたしは未来を考えると死んでいた。余裕がなかった。選び取る自由はあってないようなもので、よろこびのうたさえ歌えなかった。今は余裕があるので、毎日十三時に起き、体重管理をし、家計簿をつけている。そう考えれば、本当に余裕がなかった。余裕がない期間が長すぎて、今のわたしを天才だと思ってしまう。でも人生において重要なところは結局ノリと勢いだ。金原ひとみクラウドガール』を読んだ。わたしはきっと、ママに感情移入する。次点で杏。理有ちゃんは嘘つきだと感じた。姉のことは知らないが、きっと理有ちゃんを正しいものだとするだろう。姉はクソ真面目な人間だ。母の胎から努力の才能すべてを掻っ攫っていった。わたしはいまだ努力ができない。手の届くうちで一番の高みを目指したい。父もそういうタイプらしい。父はすごい。腕のリーチがあまりにも長い。長すぎるがゆえに、心がついてこられなかったのだろう。わたしの神さまだったひと、今はうつを患う小学生男児である。姉はうつなのだろうか。うつって遺伝するもの? わたしは遺伝でないと思いたい。わたしのアイデンティティは所詮与えられたものだったなんて信じたくない。あいつらのこと一生忘れない。名前も出身校も覚えている。よく話していた人間の名前は忘れた。感謝している。わたしは、わたしを愛さない人間からすれば、目に障る存在である。図書館に行かなくてはならない。『デルトラクエスト』、『灼眼のシャナ』、『ロード・ロス』が好きな小学生であった。本屋に行きたい。金原ひとみ『AMEBIC』はとても面白かった。最高であった。店長に「お前メンヘラなん?」と問われた。金原ひとみはメンヘラが読むものらしい。頭の良いメンヘラ、最高で最悪。隙のない自論で他者も自己も傷つけることができる。綻びにも対応可。会話が面倒で適当に嘘をつくことは悪癖である。自分の首を絞めるだけなので治したい。ぎちぎちの縄を解くほうが面倒だ。それでもしれっと嘘をつく。勤務先に、顔面にほんのりユンジンを香らせたお姉さまがいる。彼女はいつも怒っている。怒りはエネルギーになるので、良いことだと思う。それに、怒る美人は迫力がある。目の保養になる。流石に入れると痛いのであろうが。スケープゴートを仕立て上げたい。他者の株を下げ、その上で自分の株を上げたい。そうやって生きてゆきたい。楽に上手に生きてゆきたい。「知能指数は高いが生き抜く知能がない」と言われることは嬉しい。馬鹿で、哀れで、与えられた免罪符、降り注ぐお恵み。そのわり、要所でそれなりの発言力を持つ。最高である。「永遠」なんて言葉を気軽に使わないでほしい。無責任なことを言いたくない。捨てられたときにどうなる。ゴミはゴミ同士ゴミらしくゴミ箱で乳繰り合っていればそれで幸せなのに。人間と同等の生活を与えられたから。愛されたから。「幸せになるためにわたしを利用して良いよ」と「わたしが幸せにしてあげる」は違う。相手がどう思うかは別として。それは自由だ。親はわたしを愛しているのだろうか。実は愛していないのかもしれない。愛されていると勘違いしているのかもしれない。しかし、食う寝るところ住むところを与えられている。「うらめしや」の対義語は「表は風呂屋」らしい。面白い。爆笑しちゃった。珈琲の飲み過ぎで腹がきゅるきゅる鳴る。休憩中の職場は静かだ。会話がない。わたしは毎日ご飯を食べながら腹をきゅるきゅる鳴らす。テキトーな慰め、テキトーな愛、わたしがお前ならわたしのこと殺してるで。お前よく耐えてるな。「わたしヤンマガのルフィやから、わたしの人生譚とか千年後には聖書より人気になっとるから」。わたしの発言、我ながら大好き。宗教やりて〜、思想でぶん殴りて〜。わたしの物語に登場する「親」は基本最悪であるが、わたし自身は親ガチャ大成功者である。女親は意味のわからんスピで三十年もののうつを治した。青い一升瓶、講演会、書籍、それだけでウン十万円は飛んだと記憶している。しかしそれらは彼女が地道に貯めた小遣いしか蝕まなかった。わたしが異性愛者でなくとも、わたしに子どもを産むつもりがなくとも、「あんたはそうやろな」で済ませた。わたしのうつが治った直後、つまり他者と話す気力が湧いた頃、ぺちゃくちゃと詮無い会話をしただけで、「話せて嬉しかったから」と、Kindleにて結構な冊数の漫画を購入し、わたしに端末を与えた。優しすぎるやろ。絶対わたし愛されてるんやけど。そう思うことも自由だ。この思いは不自由だけれど。借金も踏み倒せるのに。もやしも好きなのに。ある程度の生活が担保されるまでは脛を齧らせてほしい、その気持ちのほうが強い。貧乏は不自由である。しかし、うしなうものがないと自由である。考えることが面倒になってきた。そうやって理論化作業を放棄し、楽なほうに飛びつき、秩序がなくなるのかもしれない。逃げろ! しかし、上記を見るに、わたしの思考は連なっており、主軸もある。言葉が足りないだけである。わたしはわたしの秩序を築いている。

2023/1/2

 神になりたい。インターネットにて「神さま」の称号を賜ったことはあるが、わたしは実生活でも神になりたい。神になれば自由を得られるのでは、と考えている。昔の人間は天災を神の仕業としたらしい。喚く空、戦慄く大地、怒る山。絶大な力を以てして気まぐれに振るわれる自然の暴力は、人間に止められない。だからこそ、数多の人間に絶大な影響を与えてきた普遍的概念に落とし込んだのかもしれない。わたしは自らの行動を止められたくない。「コイツやったらしゃあない」くらいに思われたい。諦められたい。諦められれば、自由になれるだろう。強くなりたい。強ければ、諦められるだろう。わたしは思想が強いらしいので、そちらを活かしつつ何とかしたい。ただ実生活で思想を論ずれば流石にキショい。所詮わたしの身体は自然の気まぐれに翻弄される細枝である。
 昨夜書いた文章である。長いこと考えてはいるのだが、神になるための努力はしていない。

 暇になる予感がする。本来ならばメンエスの出勤が入っていたのだが、生理が始まったため、お休みをいただいた。なぜこのアルバイトを始めたのかというと、金欲しさと成り行きである。処女を換金した人間に恐れるものなぞない。
 新年明けましてMBTI診断をした。やはりINTP-tであった。歪みなきINTP-t。骨の髄までINTP-t。初めて診断したときから、結果はもとより、各項目の割合すらもそこまで変わらぬまま、今回もINTP-t。ここまで変わらんならばやる意味がない気もするが、それでもやってしまう。INTPは診断が好きなのだ。
 友人にすすめられた、OnlyOneOf Nine『beyOnd』のティーザーを視聴した。先日ミルくんのソロ曲に狂わされたばかりだが、ナインくんにも狂わされると確信した。恐らくbeシリーズで一番好きな曲調である。あとほんまにベースが良かった。最高。てんきぅ。
 暇を持て余すと駄目になってしまう気がする。外出した。マフラー、バンスクリップ、ヘアカフ、煙草を買った。
 本も買った。若しくは読んだ。
寺山修司『少女詩集』
 『海』が好きなので。わたしは海が好きだ。特にド田舎の海が好きだ。いつか借りるため、ド田舎の海辺の賃貸を調べる程度には好きだ。梅雨の昼、夏の昼、冬の夜の海は知っているが、それ以外は知らない。こちらの『海』を読み、わたしは、夏の昼前の、ド田舎の海を想像した。
レイ・ブラッドベリ『霧笛』(小笠原豊樹訳)
 「二度と帰らぬものをいつも待っている。あるものを、それが自分を愛してくれるよりももっと愛している。ところが、しばらくすると、その愛するものが、たとえなんであろうと、そいつのために二度と自分が傷つかないように、それを滅ぼしてしまいたくなるのだ。」(大西尹明訳)
 昨年夏、この言葉に触れ、わたしは泣いた。今日やっと全文を読んだ。怪物の苦しみを、理解する人間がいた。怪物はそれを知る由もなかった。彼は孤独であった。大西訳も読み、好きなほうを購入したい。
川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』
 一年半ほど前、わたしが首を吊った直後、こちらを気遣う言葉とともに、おすすめしていただいた。最近ようやっと本を読めるほどのメンタルになったため、先日購入した。今、『なぜなの、あたしのかみさま』を読み終えた。わたしがわたしを救えるようにと祈るひとが、どこかにいたのかもしれない。そして、そのひとは、わたしのかみさまなのかもしれない。
 充実した一日を過ごせた。自らの感性を刺激する作業はとても楽しい。これからも定期的に開催したい。

2023/1/1

 日記をつけることにした。誰に言う必要もなく、自らの記憶にも留まらず、然るべく消え去ってしまうような瑣末な所感が、かたちをもって存在し続けることは面白いので。恐らくすぐに飽きるが、暇なときには書きたいという気持ちはある。いや、これを書いていたら書き続ける未来が面倒になってきた。やはり書かないかもしれない。
 ここに記すことにしたのは、残る可能性が高いからだ。iPhoneのメモなど、とにかく手もとに近いところに記していれば、わたしはすぐにそれらを捨て去ってしまうだろう。ブログという馴染みのない媒体であれば、削除を面倒臭がるに違いない。わたしは自らの悪癖を信じている。

 夢に職場のメンツが登場した。なんで初夢までバサキやねん。人生仕事すぎるやろ。現状のわたしは、生活のほとんどを仕事に費やしている。仕事のために生きているようなモンである。なんか虚しい。今年は脳内における仕事の割合を減らしたい。なんか良い趣味ねえかな。これとか。ならんかもやけど。
 十時半ごろに目覚め、二度寝するか迷ってやめた。生活リズムを狂わせればバイト始めの自分が苦しむ。起きた。えらい。布団類を洗濯した。えらすぎる。ついでとばかりに洗濯機にぶち込んだ鞄が毛玉だらけになった。アホやった。
 ゴールデンカムイ第四十話『ボンボン』を視聴した。何も言うまい。
 珈琲と煙草を買いに、自宅から徒歩一分のコンビニへ向かった。澄んだ空気が心地良かった。真赤の陽光は鋭い刃で、確かにわたしの瞳孔を刺した。思えばわたしは、黄昏を見つめるひとの瞳の色を知らない。
 今日も今日とてずうっと音楽を流していた。昨年、iTunesにて、キタニタツヤ・はるまきごはんの『月光』が五桁の再生分数を誇ったのは、聴こうと思わずとも音楽を垂れ流しているからなのでは、という結論に至った。今年も流し続けるぜ。AirPods酷使するぜ。よろしくな。

 さて、久々にこれほどの文章を書いた。節々に天才を感じられる。世界一である。宇宙一である。自己肯定感が天元突破している。しかし、自らの文章を生業にしたいという思いは、もうない。文章でしか自己肯定感が高まらないのは変わらんが、今のわたしは自己肯定感が無のままでも楽でいられるので。まァそれはもう本当に楽になった。心が凪いでいる。アイデンティティをうしなったこと、嬉しいことではないが、とにかく楽だ。どうせ死なないなら楽に生きたい。今年は死に至る程度の苦痛を得ないことに関してのみ努力したい。ハ〜ァ、楽するためだけに金稼ぎてェ〜! 好きなひとびとの死体にとびきり似合う花を手向けてェ〜! 取り敢えず煙草喫いてェ〜!!